福井の歴史と文化(2)
株式会社 勝山剣光堂 2012年09月03日
福井の歴史と文化 シリーズその3
●なぜ越前刀が名産となったのか・・・・について
北陸道の重要な関所となる福井城であるわけですから、それなりの有事に備えて武装しておかなければならないわけです。
刀剣類、鉄砲類、火薬類、甲冑武具類など必須項目となるのは明白です。
当然、製作にあたり名工、名職人を集めなければなりませんが、越前には人材も何もかもが不足していました。
加賀一向一揆、一乗朝倉義景討伐に続き、柴田勝家もお市の方と歿し、この北庄界隈はもぬけの殻だったので急遽、近隣の名職人達を越前に集結させたのでした。
近江国(滋賀県)下坂村から下坂鍛冶を、
近江国(滋賀県)長曾禰村から甲冑師を、
美濃国(岐阜県)関周辺から関鍛冶を、
山城国(京都)から主だった職人達を、
それ以外にも神社と宮司、格宗派の仏教寺院と僧侶、宮大工、治水工事専門集団、開墾農民などなど、
越前国(福井市)に一気に結集させたのです。(幕府ってカネモチだねぇ~)
それはそれは、豪勢な顔ぶれだったことでしょう。
慶長二十年の駿府政事録というものがあり、「被招鍛冶下坂云々」の記述が残されている。
福井城築城とともに、城下町も整いはじめ、現在の福井市の基盤がこのとき出来上がるのです。
ところで、士農工商、という特権階級であった当時、職人達は(工)すなわち上から3番目の身分だったわけです。
農家の農民のほうが武士に次いで遥かに偉かったんですね。
ところが、刀鍛冶はというと、特別職にあって、武士と同等またはそれ以上の地位。いわゆる大名格を有していたのです。
その証拠に苗字、石高(禄高)と人扶養扶持が与えられており、まさに大名そのものであったといっても過言ではありません。(注1)
しかし、なぜか刀鍛冶は幕府政治の表舞台には一切登場せず、ひたすら秘密裏に軍需の裏舞台に徹していて、研究材料となる文献は皆無に等しくかなりのセキュリティーで秘められていた事になります。(注2)
現代になってもまだまだ研究が進んでいないので、研究の余地が多々あるのです。
歴史好きの方、一緒に研究しませんか?
刀匠(刀工・刀鍛冶)は軍需を担う面と、宗教観念の掟の厳しい世界の狭間に居る、とても特殊な立場であったことから、その正体を活字に記すなどというのは御法度だった可能性が高いのです。(注3)
刀匠の秘密性については次号で迫ってみたいと思います。
ともえあれ、その刀鍛冶集団がこの越前福井で一大工房を築き、幕府の後ろ楯で一大産業として君臨していたわけですから、日本刀の名産地となったのは至極当然のことなのです。
下坂鍛冶の中でも筆頭株の「肥後大掾下坂」は府中(武生)本多飛騨守成重のお殿様に庇護を受け、
関が原の戦いでは戦場にて刀剣類の整備に携わっていたらしく(東軍か西軍かは不明)、また大阪城焼失の際の太閤秀吉が刀狩をして集めた名刀(太閤御物)の数々が城と一緒に焼けました。
その焼損刀剣を甦らせるべく再刃を施した功績が認められ、肥後大掾下坂は将軍家康より康の一字を賜り“康継”と改名し同時に葵の御紋の使用を許されたのでした。(五十人扶持)
本多家一押しの名工として越前松平家(結城秀康)と将軍家(徳川家康)お抱え刀工として江戸初期唯一の出世頭となったわけです。
なんと、比類無き葵紋康継の名刀(名工)は越前の刀工なのです。
同じく天皇家筋に近い山城国堀川国廣一門で菊紋を許された“山城守藤原国清”という刀工も越前です。(注4)
江戸初期の越前には葵紋康継と菊紋国清の名工が揃ったわけです。
全国規模で見ても、両家紋の刀工が揃う国は越前福井だけです。
別派でも山城国三条宗近の末裔といわれる“大和大掾藤原正則”の名工も越前で活躍。
一乗住“法華一乗越前兼法”も朝倉氏没後そのまま越前にて活躍。
関鍛冶系(関孫六兼元系)の兼則、包則、兼植、兼先、兼定らも越前で活躍。
府中武生より千代鶴系鍛冶も越前で活躍
金津住権造、松岡住吉道、大野住吉重、勝山住吉重、藤島友重などの野鍛冶系。
江戸初期から幕末にかけて総勢600余人(わかっているだけで)もの刀工群が居たのです。
ひとり100振り作ったとしても6万振り以上の作品があったはずです。
さて、福井は「越前新刀大国」と全国にその名を轟かせるほどの日本刀の名産地であったわけですが、現在の福井県民は以外にもその史実を知らずに居る人が多いのです。(注5)
これまた意外にも、県外から越前刀の名品を求めに来る、刀のお客様が多いのには驚かされます。(注6)
地元の人は知らないが、他県の方はよく知っているわけです。
肝心の福井県民の越前刀に対する愛着度は、他府県の地元郷土刀に比べると、残念ながら異常に低い数値だと思います。
福井県民って地元名産品の文化と誇りを感じにくい県民性なのでしょうか。。。(注7)
県民の意識調査を正確に行ってはいませんが、ちょっと気になりますので、本格的に調べていずれまたこちらで調査報告を掲載しようと思います。
それでは、おたのしみに。
出典
https://www.facebook.com/KENKODO.biz/ {at}
注
- 越前康継など、ごく一部の刀工に名字帯刀が許され、俸禄が与えられたことは歴史的事実だが、これは刀工としては破格の待遇である。それを刀工一般に広げて、しかも「大名そのもの」とするのは飛躍のしすぎだろう。なお、福井市立郷土歴史博物館の冊子『葵と菊 〜越前の名刀工・康継と国清〜』によれば「刀工は時代を通じて身分的には低い階級に属することもあり、有名刀工でさえ、これに関する詳しい記録は非常に乏しい」そうだ(2009年10月16日、第84頁)。勝山の理屈とは正反対である。
- 勝山は日本刀を近代兵器と勘違いしているようである。
- 日本で活版印刷が本格的に行われるようになるのは明治以降である。なお、宗教や秘密云々は中世の石工組合に起源を持つとされるフリーメイソンと日本の刀工を混同しているためではないか。陰謀論やオカルト本の読み過ぎであろう。
- 藤原国清が朝廷から山城守の銘を拝領したことは歴史的事実だが、これは「財力次第で入手可能な地位である」。つまり国清には資金力のあるスポンサーがついていたということであり、そのことをもって国清が朝廷に近い立場にあったような言い方をするのは不正確だろう。また「菊紋の拝領については、拠るべき史料がない。……菊紋は江戸時代において、葵紋のように使用に厳しい制限が加えられたことはことはないようで、飾り金具等にも菊紋が一般的に用いられていた」(『葵と菊』第85頁)。つまり国清による菊紋の使用が勅許によるものであった証拠はないばかりか、むしろ、そうではない蓋然性の方が高いことになる。
- 「越前新刀大国」は勝山が勝手に作った言葉だろう。日本刀の代表的な産地は五箇伝と呼ばれるが、その中に越前は含まれない。話を越前新刀に限定してしまえば越前だけが大国になるという勝山流の強引な発想から生まれた言葉と考えられる。
- 越前新刀というのは江戸時代に越前国で作られた日本刀の総称である。現物はすでに日本全国あるいは世界各地に散らばっているはずで、今なお福井に行けば、みやげ物のように売っているということはありえない。同様に、越前新刀を求めて他府県から勝山剣光堂を訪れる人が多いというのも、ありえない話である。
- どうやら勝山は郷土愛を抱く地元福井の高齢者に越前新刀と偽って安物の刀を売り込んでいたようだ。そのことと関係のありそうな事例が新聞で次のように報じられている。「福井県内では、大野市内の男性(故人)が100万円を超える日本刀を購入したが偽物と分かり、話し合いをしたが解決できなかったという」福井新聞、2016年5月29日付。
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