美の追求意欲衰えず
CHUNICHI Web(日刊県民福井) 2012年10月29日
ふくい老舗物語
剱光堂かつやま2代目さや師
勝山捷容(かつやす)さん
工房の壁には、のこぎりやかんな、のみなどの道具類が所狭しと掛けられている。福井市八重巻中町にある「剱光堂(けんこうどう)かつやま」の作業台の前に座る二代目さや師、勝山捷容(かつやす)さん(73)は、日本刀のように切れ味鋭い視線を手元の作品に向ける。仕事を「美の追求」と自負する。
子どものころは細かい作業に興味がなく「刀の仕事が嫌いだった」。中学三年の夏、自由研究で、刀の代わりとしてさやに収める木の刀「つなぎ」を制作。父で初代の故清次郎さんに見せると、何も言わず、ただ笑っていた。「振り返れば、あの時に『やってみるか』と言われたような気がする」
高校卒業後、会社員や団体職員を経験したが、父親の仕事はずっと気になっていて、さや作りを独自で進めていた。一九六六(昭和四十一)年に父が亡くなると「やらないといけない」との思いに駆られ、専業とすることを決めた。
主に外装の下地をこしらえる作業を担当。「刀は人の顔と同じ。反りや厚さなど、一つ一つが異なる」。それぞれの刀に合わせ、さやや、刀の柄の先端部分を覆う金具などを仕上げる。
当初は、さや作りを終えて漆塗り職人に引き継ぐと「できない」と理由も言わずに突き返された。「下地がしっかりしていなかった」と納得し、より良い出来を目指した。
全国の博物館を巡り、国宝や重要文化財の指定品を見て、目を養った。今は「越前松平家お抱えだった職人たちに少しでも近づけるよう心掛ける」。
さやの仕上げでは、海水魚「カワハギ」の皮を乾燥させたものを使って磨く。独自の方法で、つや感が比較にならないほど美しくなるという。
五年ほど前、福井市立郷土歴史博物館や越前松平家などの指定職方に就いた。四十年以上の経験があっても「良い作品を作りたい一心。素人から玄人まで、誰が見てもうなずけるものを作りたい」と意欲は衰えない。
「これでいいということは、職人である限りない」。仕事で本当に評価されるのは百年後だと考えている。ずっと先に、職人としての証しを残せればと、真摯(しんし)な気持ちで工房に座る。 (山本洋児)
【あゆみ】福井市花月上町(現福井市照手1丁目)で約80年前、初代の勝山清次郎さんが「剱光堂かつやま」を創業し、主に陸海軍の刀をこしらえていた。長男と三男は研ぎ、次男は販売を手掛け、四男の捷容さん(73)が1968(昭和43)年、剱光堂かつやまの名の下、さや師を継いだ。97年に工房を現在地の福井市八重巻中町に移転。越前松平家などの指定職方を務める。
出典
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/shinise/list/CK2012102902000191.html →
http://2nd.geocities.jp/katsuyasuk/chunichi1.mht {kn} MHTML, 538 KB
備考
この記事は勝山剣光堂のウェブサイトの会社概要に援用のうえ「記事はデタラメだらけですがこんな記事を掲載しても大丈夫なのでしょうか?」などのコメントが付されている。{at, wm}
勝山捷容氏は勝山智充の叔父に当たる。もともと勝山剣光堂に属していたが、1996年に勝山智充が社長に就任してまもなく退社。1997に独自の工房「剱光堂かつやま」を構えた。勝山剣光堂に関する苦情が剱光堂かつやまに寄せられ、それがきっかけで犯罪が発覚することがたびたびあったため、勝山智充夫妻は、この叔父を日ごろから目の敵にしていたようである。この他にもいろいろなところに誹謗中傷の跡が見られる。
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