豪剣無双 真柄十郎左衛門(上)
福井新聞 ONLINE 2010年01月30日
姉川の武勇、庶民も語る
戦場駆けた大太刀伝説
■落語や講談に登場
「1尺2寸(約36センチ)か、ずいぶん短い刀だな」
「それは刀の横幅だ」
「そんなんじゃ、前が見えないだろう」
「だから刀のところどころに窓を開けて、のぞいてはちょいと切り…」―。
江戸期の落語「浮世床」には、姉川合戦の十郎左衛門について町人2人が掛け合う場面がある。
1570(元亀元)年6月、十郎左衛門は、朝倉・浅井連合軍が織田・徳川連合軍と戦った同合戦で奮闘し、討ち死にした。その刀の大きさは、しばしば落語や講談のネタにされ、庶民の間で語られてきた。
大太刀に関する記述は、史料にも見られる。江戸初期成立の「朝倉始末記」によると、後の将軍足利義昭の前で余興として振るった刀は、なんと刃渡り9尺5寸(約288センチ)。「信長記」では、姉川合戦で用いた刀は同5尺3寸(約162センチ)と記されている。平均的な日本刀は刃渡り約70センチ。史料の記述に違いはあるものの、尋常な長さではなかったことをうかがわせる。
■“本物”が現存
「おもしろく誇張してあると思われがちだが、語るに値するほどの大きな刀だったのは間違いないだろう」
自費出版した小説「小谷城挽歌(ばんか)」の中で、十郎左衛門の活躍を描いた三田村順次郎さん(75)=鯖江市下新庄町=は話す。十郎左衛門のものという大太刀が、全国に多数現存していることにも注目する。
名古屋市の熱田神宮には、十郎左衛門を討ち取った織田や徳川側の者が奉納したとされる「真柄太刀」が二振りある。常設展示されている「太郎太刀」は、刃渡り221・5センチで重さ4・5キロ。奉納時期は1576年。一方の「次郎太刀」は刃渡り約166・7センチ。奉納されたのは姉川合戦直後の8月だ。しかも次郎太刀には、南北朝時代の名刀匠で越前に打刃物の技術を伝えた「千代鶴國安(ちよづるくにやす)」の銘がある。
石川県白山市の白山比め(めは口に羊)には刃渡り186・5センチの太刀が残る。また敦賀市の気比神宮には、かつて小豆3升が入る巨大なさやがあったという。
三田村さんは「こういった刀の存在が、後世の人々のロマンをかき立ててやまない」と語る。
■実用的な作り
これらの巨大な太刀は、実際に使われたものなのだろうか―。
「熱田神宮と白山比め神社の大太刀を見たが、単なる奉納のための美術品ではない。華美な飾りがなく、どこまでも実用的に作られた印象」と、日本美術刀剣保存協会福井支部副支部長の勝山捷容(かつやす)さん(71)=福井市八重巻中町=は話す。
日本刀の外装「拵(こしらえ)」の一級の職人でもある勝山さんによると、どちらの太刀も重量を減らすために厚みが抑えられ、刃の側面に「樋(ひ)」と呼ばれる溝がある。樋には強度を増す働きもあり「振ることを意識した作り」だという。
長い刀が好まれた南北朝時代から下り、集団での混戦が多かった戦国時代は、片手で振りやすいように刀は短いものが主流だったという。
そんな時代に、驚異的な長さの太刀を振り回す十郎左衛門について、勝山さんは「異色中の異色の存在。戦場で目にした敵の武士たちは、震え上がっただろう」。
【2010年1月30日掲載】
出典
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/feature/index.php?cat=546&author=55 {wm}
備考
この記事の「■実用的な作り」以下は勝山剣光堂のウェブサイト「会社概要」に引用の上「自身[勝山捷容氏]の悪行三昧にも身震いするほど震え上がりますね」などのコメントが付されている。{at, wm}
勝山捷容氏は勝山智充の叔父に当たる。もともと勝山剣光堂に属していたが、1996年に勝山智充が社長に就任してまもなく退社。1997に独自の工房「剱光堂かつやま」を構えた。勝山剣光堂に関する苦情が剱光堂かつやまに寄せられ、それがきっかけで犯罪が発覚することがたびたびあったため、勝山智充夫妻は、この叔父を日ごろから目の敵にしていたようである。この他にもいろいろなところに誹謗中傷の跡が見られる。
括弧・略号
{ } アーカイブ
at archive.today
wm Wayback Machine